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「リア充オタク」という単語に過剰に反応するオタクの本質に迫る

この程日テレのZIPという番組で『リア充オタク』という単語が発信され、SNSではかなりその単語に対して大なり小なりの反応が出ている。
それに関するYahoo!ニュース「リア充」と「オタク」は互いに相容れないだろうという意見があったりするわけだが、特に指摘が多かったのはオタクが年間の「オタク活動」に使う費用が2000年前後の10万円から2万5000円に減じているという指摘に対してだ。

年間で2万5000円程度の出費で「オタクとしてやって行かれるのか」とか「オタクを名乗るな」とか、そんな意見が多い。僕は最初「趣味に費やす予算として年間2万5000円というのが決して高くは無いだろう。」とおもったが、自分が大好きな映画で考えてみたら一本1,700円として25,000円を1,700円で割ると14……って年間14本も映画を見ていればその人は立派な映画オタクと言えるんじゃなかろうか。
先日知って驚いたのだが、NTTコム リサーチによると、年間で映画を12本(月一)以上のペースで見る人間は10人に一人もいないという。

リンク先を見てみると月一以上のペースで映画館に足を運んでいる人の割合は全体の8%にとどまる。自分のLINEの友人数を見てみるとピッタリ400名だったが、果たして32名の友人が月に一度映画館で映画を鑑賞しているかというと……恐らく、いや絶対に行っていない。
そう考えると年間14本映画を見る人はやっぱり「映画オタク」といって良いだろう。25,000円って以外と大きい額なんだなと思った。

けれども僕が言いたいのはそんなことではなく、この言説に反論したり拒絶の色を示したり、過剰に反応をしているのは所謂「オタク」側の人間ばかりではないかと言うこと。

その理由はいくつかあると思う。
一つには自分たちの縄張りを「リア充」によって荒らされたくないと言う思いから来る自己防衛本能だ。

「人間という生き物は自己と外界の間に境界線を引きたがる存在である」というのが僕の持論なのだが(これについてはいつか詳しく述べたい)、今回の拒絶反応は彼我の境界線を犯された=アイデンティティを侵害されたことに対して、自分がオタクであるというアイデンティティを強固にしたいが故に出た反応だとみることが出来る。

金額の大小に注目し、「○○万円の金額を費やしている自分の方が上である」という方向に持って行く言説は「多く出費している自分」をより高位に位置づけることで自己のアイデンティティを保とうとしているのではないだろうか。
二つ目は、「他者によってアイデンティティを付与されることを嫌う」という性質から来る拒絶反応だと思う。

これを説明するには「そもそも“オタク”という単語はどう生まれたのか」という根本的な問題について考えなければならない。
実は大学生の頃オタク文化論を少し真面目に調べていたことがある僕としては、語り始めると長くなってしまう(笑)ので一つリンクを貼るにとどめておく。

この全てに僕が賛成しているわけではないものの、大枠をつかむにはかなり適したテキストであると思っている。

たけくまメモ 2005年3月15日 「中森明夫「おたくの研究」をめぐって」

この中のゆうきまさみ先生の意見を僕は支持していて、「“オタク”という単語は自然発生的に生まれたものではないか」というのが僕の意見。

元号が平成に変わってからこの世に生を受けた僕がこの頃の事を知る由も無いので、この辺りはいろいろな人の言説や自分の想像を頼りにするほか無いけれど、少なくとも当時のオタクたちが、他者からあてがわれる形で「オタク」という言葉を受け入れ、今に至るまで使い続けているとは思えないというのが理由の一つ。
特にメディアに初めて現代的な意味で「おたく」という単語が初めて登場したのは中森氏のコラムとされているが、その内容は「オタク」(氏は「オタク」とカタカナでは表記せずひらがなで「おたく」と表記している)に対してかなり攻撃的であり、これを受け入れて自分たちを表す名詞として「オタク」という単語を飲み込み、使ってきたとは思えないからだ。
このように「オタク」という単語の起源を巡って、誰に命名されたでもなく自分たちは自然と使い始めたとする言説は前述の通りアイデンティティを他者によって付与されることを嫌うという性質から来るものだといえるだろう。

今回の「リア充オタク」という単語に対する過剰な反応は、「自分たち“オタク”と“リア充”は相容れない」という拒絶反応と「メディアから新たな固有名詞を与えられること、またそれによってオタク文化の外縁部を侵略されること」に対する拒絶反応から来ているのだと思う。
けれども僕は思う。

日本のような平和な国に生まれ育った人間は趣味の一つや二つあるもの。

そうなれば「より深く知ろう」、「より収集しよう」と思うのはある種当然のことではないだろうか。

オタクという単語は、それ自体が明確には定義できない揺らぎを含んだ言葉である。
「宮崎事件」を契機に「オタク」を犯罪者予備軍のように扱う時期もあったが、今日において「オタク」という単語は一般化し、「ある一定の事柄に過度に傾注する人物」程度の意味合いしかなくなっているのではないだろうか。

その意味まで定義を広げれば、ある一定以上の収入を得、生活必需品以外のものに収入の一部を充てられる人間であれば誰もが「オタク」になり得ると僕は思う。

逆に、衣食住が満ち足りているのに「○○オタク」と言えるほどのめり込めるものがないのって、僕の基準で考えればそっちの方がおかしい(これについては僕の考えが極端だという自覚はある)。
オタクと呼ばれるか否かは、興味の対象が世間一般に認められているか否かの違いであり、たまたま興味の対象が漫画やアニメなど他者からの共感を得られないものであった場合、その人はオタクと呼ばれる。

僕はその程度に思っている。

「リア充オタク」という単語に拒絶反応を示すオタクの自覚があるあなたの周りには実は自分とはのめり込むジャンルが違うだけで、凄くオタク気質な人が潜んでいるし、自分はオタクに類さないと思っているあなたは、周りから見たらオタクに思われているかも知れない。
人は皆、誰もがオタクたり得るのではないだろうか。
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